火の玉が宙を舞う 志手の盆火 ガータリ
言葉で説明するより実物を見てもらった方が早いだろうと思って、数年前の写真などを使って短い紹介動画を作ってみました。8月13日の志手の夜の恒例行事が「ガータリ」です。今年も火の玉が宙を舞いました。
ガータリは13日に行われるので「盆の迎え火」と言われます。ただ、昔は13、14、15と3日間続けてやっていたと言う人もいます。
ガータリが行われる場所は、志手の住宅街の背後にある小高い丘の中腹です。志手に昔から住む「園田」※さんたちの墓があるところです。
※「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん そのルーツは?」をご参照ください。
13日夜にあらかじめ作っておいた麦わらの球などがここに運び込まれます。「チキリン」と呼ぶ鉦もガータリのお囃子として欠かせません。
ここで麦わらの球の作り方を簡単に紹介しておきます。
見ていると、単純な作業のようですが、やってみると、きれいな球形にするのはなかなか難しいことです。
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カッパ封じ?虫送り?語源は不明
志手のガータリは「大分今昔」(渡辺克己著 1964年大分合同新聞社発行)で少し紹介されています。この本の「南大分かいわい」の中にあります。少し引用してみましょう。
火祭りといえば、山ひとつ越えた志手では、盆行事に、子どもたちがガワタリと呼ぶ火祭りをやっていたが、昭和になって絶えてしまった。
ガワタリの語源が分からないが、行事はたぶん迎え火の変形したものだろう。あるいは「蛾(ガ)渡り」と呼んだ虫送りの行事だったかもしれない。また毘沙門川で泳ぐ子どもたちがカッパ(河太郎)に引かれないよう、カッパ封じの火祭りだったのが、そのもとを忘れられ、なんとなく子どもの年中行事の一つとなったのかもしれない。
似たような風習は大分市内のほかの地域にもあったようです。1956(昭和31)年に発行された「大分市史下巻」には次のような話があります。
米良では、かつてオクリマンドロ(送り万灯籠)といって小麦稈(かん)を束にし、それにカズラのひもをつけて火を付け、山の上に土で作った高い台の上で振り回していた。
「大分の歴史10巻」(大分合同新聞社 1979年)には「マンドロ」の紹介で以下の記述がありました。
大分市の農村部ではコダイ(小松明・小さいたいまつ)のことをマンドロ(万灯籠)と呼んだが、振りマンドロもしていた。振りマンドロは綱につけた「麦から」の束に火をつけ、頭上で振り回すものである。滝尾、南大分方面で行われていたが廃絶した。
いずれもお盆の行事として行われていたものです。ガータリという呼び名の語源はともかく、志手でも他の地域と同様に盆の行事として行われていました。そして、他地区と同様に志手でも行われなくなりました。
復活したガータリ、盆踊り、子ども神輿
一度途絶えたガータリが復活したのは1978(昭和53)年8月と、志手老人クラブ共和会が発行した「ふるさとだより17号」にありました。
2005(平成17)年5月に発行された「ふるさとだより17号」は「戦後60年」の特集でした。その中に「ふるさと年表『戦後60年・志手とその周辺』」があります。
年表は「昭和20(1945)年8月15日 太平洋戦争終わる」から始まります。続いて「同年10月14日 アメリカ占領軍 大分進駐、大分連隊跡の兵舎に入る」。大分連隊の兵舎や練兵場は志手の集落の目と鼻の先でした。
昭和20年代から30年代、40年代、50年代と、この年表を見ていくと「昭和53(1978)年8月13日 盆の迎え火『ガータリ』復活」とあります。
そして、翌年の54(1979)年8月14日には「盆踊り復活、自治会、体育協会、PTAが発起」。盆行事が相次いで再開された事情は、残念ながら、この年表では分かりません。
さらに年表を見ていくと「平成2(1990)年7月24日 志手子どもみこし 30年ぶり復活」とありました。
昔はお盆の時に子ども神輿(みこし)が出て、志手の集落内を回ったそうですから、一時は消えてしまった盆の主な行事が全部復活したことになります。
※左の写真は8月14日朝。この日の夜に志手町内会供養盆踊り大会が開かれました。同日朝は会場設営作業が行われ、盆踊りの中心となる櫓(やぐら)が組まれました。
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